水音 - MIZU-OTO -

Novels

左腕 : left arm

■ epilogue side -Gray

(やられるっ!!)

 自分は吹き飛ばされて尻餅をついたような格好だ。とてもではないが避けられない。

「避けろぉぉぉぉっ!」

 トマスの声がいやにゆっくりと聞こえていた。

<<体ヲ右ニヨジレ>>

 頭の中に確かに声が聞こえた。その声に従うように体を――ほんの少しではあったが――右によじる。次の瞬間――

 ゴッ!

 人形の手はグレイの体を傷つけることなく、グレイの――少し大きくなった――左腕に止められていた。

(腕が……勝手に?)

 ドクンッ――

 体の中で何かが脈打つのを感じる。

(なん……だ?)

 左腕の血の量が多くなっているような……なんとも言い表せない感覚の直後、腕の筋肉が意識とは無関係に蠢き始める。

 ビキ……ビキッ!

「あぁぁぁああぁぁっ!?」

 左肩から先が熱くなり激痛が走る。同時に皮膚が裂ける感覚、筋肉が弾ける感覚が襲ってくる。

「うあぁぁあぁぁぁぁっ!!?」

 激痛に叫んだと同時、腕が動いたような感覚を受け、前を見る。

 ゴト……ゴトゴト……

 グレイの左手に握りつぶされた人形がバラバラになり床に落ちていく。

 少しずつ、意識が……薄れていく。

「……なっ!?」

 トマスの驚く声が遠くに聞こえている。

「お前さんがキャ……た……」

「……う……ふぅ……」

 痛みは引いていたが、なんとも言えない違和感のようなものに苦しく息を吐く。

「……して……仕事……」

 外界の音が聞こえづらくなるのと同時、眠りに落ちたような感覚の中でグレイの思考はある一つの事実を認める。

(俺は……『恐怖』だったのか……?)

 そして、家族や友人たちの顔が浮かんだ。

(俺が……『恐怖』だったのか)

 トマスが『左腕』に対して攻撃しているのを視界の端に捉えながら――グレイは黒い涙が溢れてくるのを止めることが出来なかった。

 意識しなくても『左腕』が勝手に攻撃を防ぐ――意識してもおそらくその行動は止まらないだろう。

「効いてく……、うおぉぉぉぉっ!!」

 トマスが大きく吠えながらこちらに向かってくる。

 ザンッ!

 左腕の肘の先あたりに痛み――のようなもの――が走った。体液が流れ出ているようだ。だが、熱いだとか冷たいだとか――生温いだとか――そういう感覚は無い。

「待ってろよ……必ず助けてやる」

 トマスの声が――今度は、はっきりと――聞こえた。

 ザンッ! ドシュッ!

 トマスが続けて、肩口を斬りつけてくる。当然だが……傷は徐々に深くなる。

(動くな……動くんじゃない)

 グレイは、ともすれば今にもトマスを握りつぶしそうになる衝動を必至で抑える。

 『恐怖』は潜伏状態から完全な発現状態になるまでに通常1分を必要としないが、既に3分ほど経過しているにも関わらずまだ外殻などは出来ていない。

(こいつが――俺が――街を……っ!!)

 グレイは猛烈な吐き気をこらえながら、『左腕』の行動を抑止しようとしていた。

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」

 肩口を五、六回斬りつけられただろうか、トマスは大きく疲労しているように見えた。

 ビクンッ!

 体がひときわ大きく痙攣する。内臓が押し出されるような吐き気をもよおす。

(まず――ッ)

 だが、制止しきれずに、『左腕』は動いてしまう。

 ゴシャッ!

 だが、どうにかトマスには届かず、横の壁を大きく抉るに留まる。

(――ッ!!?)

 反動で肩の傷口がやや拡がり、体液が噴き出す。

 視界の端にトマスが再びアウグストを起動させているのが見えた。

 不完全なままの『左腕』はもはやグレイの言う事を聞かなくなっていた。トマスに向けて大きく腕を突き出す。

 スッ……と、トマスは寸前で避ける。だが、その動きを予想していたかのように『左腕』はトマスが避けた方向に大きく薙ぎ払う。

(――動くなっ!)

 グレイの最後の意識はかろうじて『左腕』の行動を一瞬止める。

「た……頼……む……」

 なんとか口を動かし――声になっていたかどうかはわからない――意識が暗い闇の底に沈んでいくのをただ享受した。

「……ぉぉぉ……」

 ……

 ゴト

 ……

「グレイ……、グレイ……」

 沈みきった筈の意識の端に、自分の名前を呼ぶ声が聞こえたような気がした。

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